三好丘旭の沿革

入植からニュータウン街開きまで

三好丘旭は最近の新築ラッシュにより、新しいお仲間も増えました。
旭の始まりは昭和16年、当時名古屋市の区吹上にあった名古屋刑務所の受刑者による農場の開拓。昭和33年には長野県三岳村から移住者があり、続く福谷や豊田など他地域からの移住者も加わって開拓が進み、さらに住宅地として姿を変えてきました。

沿革

明治22年
町村制施行。明治の大合併により、旧三好村(三好、西一色、福田)、莇生村(莇生、福谷、黒笹)、明越村(打越、明知)の3村が誕生。
明治39年
3村(三好、莇生、明知)が合併し三好村となる。
昭和16年
福谷下り松の山林を名古屋刑務所が借り受け開墾を開始。(後の三好農場)
昭和33年
三好町が発足。牧尾ダム建設に伴い、長野県三岳村からの移住者7戸が福谷下り松へ入植。
昭和34年
三好池が完成。伊勢湾台風の強風被害。
昭和36年
愛知用水が通水。三岳村から以外の移住者も含め、高嶺朝日ヶ丘地区が発足。
三好町北部地区の開発計画の話が出始める。
名鉄豊田線建設の計画が始まる。
昭和37年
高嶺地区の4地区(大鹿山、緑ヶ丘、舟ヶ峪、朝日ヶ丘)で高嶺行政区となる。
昭和40年
名古屋刑務所が福谷下り松の三好農場跡地に移転。
昭和47年
名鉄豊田線計画が発表される。尾三消防本部発足。
昭和49年
三好ケ丘福谷開発組合および三好ケ丘高嶺開発組合を設立。
三好町北部の丘陵地を「三好ケ丘」と命名し、開発計画。
尾三衛生組合設立。(ゴミ処理)
昭和50年
中部水道企業団発足。
昭和51年
高嶺朝日ヶ丘集会所として現在の旭の家が完成。東郷美化センター完成。(ゴミ処理)
砂川衛生プラント完成。(し尿処理)
昭和52年
豊田線沿線の第一地区(三好丘・三好丘旭)が市街化区域に編入。第一種住居専用地域で開発が始まる。
昭和54年
名鉄豊田線が開通。三好ケ丘駅ができる。
第三地区(黒笹)が市街化区域に編入。
昭和59年に土地区画整理組合が設立。
昭和56年
~平成7年までの13年をかけ、福谷地区・高嶺地区に新市街地が誕生。
昭和57年
豊田線沿線の第二地区(三好丘緑・三好丘桜)が市街化区域に編入。
第一種住居専用地域で開発を始める。
昭和63年
アートヒル三好ヶ丘の街びらき。
平成2年
北部小学校から分離して三好丘小学校が開校。
平成3年
三好丘行政区が誕生。
平成4年
三好丘行政区から分かれて、三好丘旭行政区と三好丘緑行政区が誕生。
平成5年
三好丘旭集会所が完成。東名三好インター開設。
平成7年
三好丘地区コミュニティ設定。(三好丘と旭の合同事業)
平成9年
三好丘小学校から緑丘小学校が分離。
平成14年
三好町が人口5万人突破。
平成16年
旧高嶺旭ヶ丘集会所を三好丘旭行政区に管理移管。
平成17年
旧高嶺旭ヶ丘集会所を「旭の家」として開設。
平成19年
三好丘小学校から黒笹小学校が分離。北中学校から分離して三好丘中学校が開校。
平成22年
三好町がみよし市となる。

長野県三岳村から移住したころ

国土地理院写真_昔の三好丘旭
出典:国土地理院(S52年撮影)

土地の様子

草や低い木しかない土地で、遠くまで見渡すことができた。
砂礫層のところを掘ると水が湧き出して、野菜を冷やすのに使った。
小学校は北部小学校、中学は三好中学に。刑務所の三好農場の中を抜けて通っていた。

畑や牧場

畑でできた柿やスイカはとてもおいしく、名古屋の市場に出荷していた。
今のアヴェニール前のあたりに牛舎があり(後に旭グラウンド横に移転)、旭集会所の裏の墓地のあたりには豚小屋があって、豚がたくさん放牧されていた。
三岳村から移転する前から、今の三好丘のヒルズのそばに養鶏農家があった。(現在は移転)

暮らし

三岳村から家屋や蔵を移築したお宅もあり、現在も残っている。昭和34年に伊勢湾台風が来たが、幸い被害は少なかった。冬は今よりも寒く、和田ケ池(旭1丁目の北)が凍った年もあった。
名鉄開通前は「三好ヶ丘駅を作ってもキツネやタヌキしか乗らない」と言われたことも。

その後の都市化

昭和51年、今の旭4丁目に砂川衛生プラントを誘致することで、高嶺の集会所を建設できた。砂川プラントの処理水が入る布袋子川(ほてごがわ)は水質がよく、蛍がたくさんいた。

昔の面影

ニュータウン建設に伴い道路も大幅に作り変えられたが、旭の家の前から豊田へ抜ける細い市道は昔のまま。北側には今も田畑が広がっている。当時は旭グラウンドの北側も高い木はなくて、見晴らしがよかった。キジが今よりもたくさんいたし、ヤマドリもいた。

本記事は開拓者の子ども世代の方々のお話と「旭あじさいクラブ」の資料を参考にしました。
(旭だより 2020年7月号掲載)