入植からニュータウン街開きまで
三好丘旭は最近の新築ラッシュにより、新しいお仲間も増えました。
旭の始まりは昭和16年、当時名古屋市の区吹上にあった名古屋刑務所の受刑者による農場の開拓。昭和33年には長野県三岳村から移住者があり、続く福谷や豊田など他地域からの移住者も加わって開拓が進み、さらに住宅地として姿を変えてきました。
沿革
三好町北部地区の開発計画の話が出始める。
名鉄豊田線建設の計画が始まる。
三好町北部の丘陵地を「三好ケ丘」と命名し、開発計画。
尾三衛生組合設立。(ゴミ処理)
砂川衛生プラント完成。(し尿処理)
第三地区(黒笹)が市街化区域に編入。
昭和59年に土地区画整理組合が設立。
第一種住居専用地域で開発を始める。
長野県三岳村から移住したころ

土地の様子
草や低い木しかない土地で、遠くまで見渡すことができた。
砂礫層のところを掘ると水が湧き出して、野菜を冷やすのに使った。
小学校は北部小学校、中学は三好中学に。刑務所の三好農場の中を抜けて通っていた。
畑や牧場
畑でできた柿やスイカはとてもおいしく、名古屋の市場に出荷していた。
今のアヴェニール前のあたりに牛舎があり(後に旭グラウンド横に移転)、旭集会所の裏の墓地のあたりには豚小屋があって、豚がたくさん放牧されていた。
三岳村から移転する前から、今の三好丘のヒルズのそばに養鶏農家があった。(現在は移転)
暮らし
三岳村から家屋や蔵を移築したお宅もあり、現在も残っている。昭和34年に伊勢湾台風が来たが、幸い被害は少なかった。冬は今よりも寒く、和田ケ池(旭1丁目の北)が凍った年もあった。
名鉄開通前は「三好ヶ丘駅を作ってもキツネやタヌキしか乗らない」と言われたことも。
その後の都市化
昭和51年、今の旭4丁目に砂川衛生プラントを誘致することで、高嶺の集会所を建設できた。砂川プラントの処理水が入る布袋子川(ほてごがわ)は水質がよく、蛍がたくさんいた。
昔の面影
ニュータウン建設に伴い道路も大幅に作り変えられたが、旭の家の前から豊田へ抜ける細い市道は昔のまま。北側には今も田畑が広がっている。当時は旭グラウンドの北側も高い木はなくて、見晴らしがよかった。キジが今よりもたくさんいたし、ヤマドリもいた。
本記事は開拓者の子ども世代の方々のお話と「旭あじさいクラブ」の資料を参考にしました。
(旭だより 2020年7月号掲載)